小生の卒業論文を公開しています。卒論はワードで作りましたが、それをテキストファイル経由でコピペ(複製&貼付)して貼り付けたので、ちょっと読みにくいかも。。。なお、コピペにあたって発生した文字化けはそのままにしてあります。また、卒業論文の文章上から個人情報が分かってしまう部分については、一部伏せ字にして変更してあります。
※添付ファイルで直接ワードをダウンロード出来るようにしようと思いましたが、パソコンの環境が人により異なるため、ホームページに直接全文掲載という形をとりました。

↓卒業論文↓





要旨

言語学で、主に言葉の文字通りの意味だけ扱う「意味論」に対して、特に近年注目を浴びている「語用論」という分野は、実際に言葉が使用される際の、会話の前後関係・話し手聞き手の立場・会話の状況・言語外の知識などが、どのように意味機能に影響を与えるかを研究する分野である。この語用論は、実は我々の日常生活にも見られ、日頃なにげなく乗っている自動車や鉄道の世界においても、よく語用論的な要素が見られる。自動車を運転すれば標識やステッカーなど、鉄道に乗ってみれば女性専用車両に関連したアナウンスや女性客の発話など、意外にも語用論として解析すべき対象になっているものが多い。我々は、言語に対して、意味論にも偏りすぎず、語用論にも偏りすぎず、言語を思考の道具としてとらえつつも、コミニュケーションとしての手段も忘れてはならない。言語とは、いつの間にか私達の中に存在していて、副次的に私達がそれを手段として使っているに過ぎないのであろう。



日常生活にみられる語用論---交通機関を中心に

指導教授 松本純一先生

4年A組48番 ●●○○ 学籍番号2034097


目次

1 意味論と語用論…1

2 意味論と語用論の具体的区別…4

3 自動車を運転して気づく語用論…6

4 鉄道の女性専用車両にみられる語用論…13

5 その他の実例…20

6 語用論の重要性…21

1 意味論と語用論

「言語学」というととかく専門的に見られがちだが、言語だけあって我々の日常生活の随所に「言語学」は見られ、こと「語用論」に関しては、我々はおそらく誰もが無意識のうちに使っていることである。わたしは、鉄道を利用したり、自動車に乗るたびに、語用論の折りに触れるので、今回、「語用論」というがいかに身近なものかを考察していこうと、語用論がテーマの卒業論文を書こうと思った。

「対話」というのは決して適当・無秩序・無原則に行われているのではない。わたしたちが日々行っている「対話」は、しっかりした法則・原理に裏付けられている。そして実際、その法則を専門に研究する独立した学問分野も存在する。ここでは、その中の「語用論」と「意味論」に焦点を当て、特に語用論について書いていこうと思う。

語用論(pragmatics)というのは、それぞれに飛躍的な発展を遂げている現代の言語学の諸分野の中でも、近年特に注目されている分野のひとつである。語用論は、広い意味では言語の意味研究の一つだが、以下に述べていくように、言語の文字どおりの意味だけをもっぱら扱う意味論(semantics)とは異なり、話し手と聞き手の会話の中に生まれてくる、より複雑で豊かな意味の現象を扱うことを主な目標としている。

では、語用論と意味論の違いを、大雑把に述べてみよう。既に述べておいたように、語用論(pragmatics)は広い意味での言語の意味の研究のひとつである。しかしこの語用論という分野が、言語学の主要な分野として広く認知されるようになってきたのは比較的最近になってからのことであり、それ以前までは、言語の意味を研究する分野といえば意味論(semantics)だけであった。現在でも、「意味論」と題名に掲げながらも、その中身はどちらかといえば語用論の担当範囲になるであろう内容のものが、多くある。言語学者の中には、「そもそも語用論と意味論は同一のものであり、分ける必要はない」と考えている人まで存在する。

 しかし、一口に意味の研究といいましても、やたらに思いつくままにさまざまな意味現象を取り上げていっても、なかなか複雑でとりとめのないことになってしまうことは容易に想像できることであろう。なにしろ、音声や単語や文法などの、言語の他の分析対象と比べても、意味というものはそもそもの実態自体がひどく不明確なもので、そもそも何が分析すべき意味現象に含まれるのかということ自体、人によってまったく考えが食い違ってしまうことも多い。

 そこで、意味論を研究する人々の多くは、意味論の研究対象を、言語表現の単純な文字通りの意味だけに限定するようになってきた。このように限定することによって、当面の研究や議論の対象を絞り込んで、そこに力を集中することができる。もうひとつの事情としては、意味論はもともと哲学や論理学の影響を強く受けて生まれてきた分野なので、とりあえず意味研究の範囲を、論理学的な表記と素直になじむものだけに制限したかった、という動機があったのかもしれない。

 このように対象を限定した意味論の研究も、むろん多くの豊かな成果を上げてきたし、今度もまだまだ取り組まなければならない課題も山積みされている。しかし、やがて言語学者や哲学者の多くは、このように範囲を狭く限定した意味の研究を物足りなく感じてきた。そこで、言葉の単純な文字どおりの意味を越えて、より豊かな意味や、話し手の意図・言外の意味などを扱う分野の必要性が叫ばれるようになってきた。そしてこの分野が、現在では語用論というもうひとつの独立した意味研究の分野として認められるようになってきたわけである。

 語用論と意味論を別の独立した分野として考えねばならないもうひとつのポイントとして、コンテクスト(コンテキスト;文脈,脈絡,前後関係)への考慮、という点がある。言葉の文字どおりの意味だけを扱っているのであれば、必ずしもその言葉が使用された状況や前後関係などを考慮に入れる必要はないかもしれない。しかし、言語はコミュニケーションとしての役割をになっている以上、より広い範囲の意味現象を扱うためには、その言葉が使用されている状況・話し手聞き手の立場・使用者が持っている前提知識なども計算に入れないわけにはいかない。そこで語用論を、そのような言語外の知識や状況(これがすなわちコンテクストである)をも考慮する分野である、と説明することもできることになる。

 以上の話を少し別の言い方でまとめるならば、意味論とは、その言語の各語彙項目の意味と文法構造だけによって決定される言語表現の「文字通りの意味」を扱う分野であり、語用論とは、実際に言語が使用される際に、会話の前後関係・話し手聞き手の立場・会話の状況・言語外の知識などが、どのように言語の意味機能に与えるかを研究する分野であり、とでも定義することができるだろう。

 もっとも、言語学者の中には、このような意味論と語用論の区別を、根本的に無意味で不必要なものであると考える人々もいる。そのような人々の意見では、意味の研究は結局は常にコンテクストを考慮に入れざるを得ないものであるし、文字通りの意味とそれ以外の意味との区別もそれほど明確なものではないのだから、意味の研究は結局すべて語用論にならざるを得ず、意味論という独立した分野をたてる必要はない、というわけだ。確かにこの考え方にも一理あるが、言語はコミュニケーションとしての役割と同様に、思考や認知のための道具でもあるので、やはり語用論と意味論との区別は必要かつ有益であるとわたしは考える。

意味論と語用論の区別そのものは、有益かつ必要であるとしても、あらゆる文はコンテクストから独立してはありえないということも忘れてはならないだろう。意味論や語用論に直接関係することではないが、文章を単体で見るのは場合によっては危険なことなのを考察していく。「文脈に頼らず、文の構造を解析しよう。1文1文読めれば文章はその集まりに過ぎないのだから徐々に読めるようになる」、この言葉は、あらゆる文は一定のコンテクストの中で発せられるのであって、コンテクストから独立してはありえない、というところを無視してしまっているところに問題がある。1文の構文決定でさえ、コンテクストなしには不可能な場合がある。例えば

という英文を考えてみよう。実はこの文では、「銃で1人の女性を殺した」のか「銃を持っている女性を殺した」のか、構造的に2通りの可能性がある。この文章単体だけからでは、どちらの意味かは決定できず、実際は文脈を考えて決定することになり、文脈なしでは決定できないわけである。

こちらはどうだろう。これは「雨が降っていたから帰ってこなかった」のか「帰ってきたのは雨が降っていたらからではない」のか、2通りの解釈が考えられ、「帰ってきた」のか「帰ってこなかった」のか、まったく逆の可能性があることになる。

 このように、文章の意味とは、文章それ単体では単純な意味でも2通り以上の意味が発生する場合があり、幸か不幸か、文脈なくしては考えられない場合があるので、言葉の文字通りの意味を扱う意味論に、強引な言い方をすればコミュニケーションとしての役割の言葉を扱う語用論は、ともに必要なものとわたしは考える。

なお、語用論を英語でいった「pragmatics」の訳語としては、他に「実用論」「運用論」などの訳語もあり、わたし個人としましては「語用論」では今ひとつ感覚的にしっくり来ず、「運用論」という訳語がもっともしっくり来るが、現在では「語用論」という訳語がもっとも一般的であるので、ここでもこの呼び方で統一する。

2 意味論と語用論の具体的区別

では、ここまで述べてきた、語用論と意味論の区別を、以下、レストランでの会話の例を交えて、確認していく。

たとえば、あなたがレストランに入って、以下のような会話がなされたとしよう。

店員「タバコは吸いますか?」

あなた「禁煙席でお願いします。」 

これは、言葉の文字通りの意味だけを扱う意味論的には、店員は単にあなたが「タバコを吸う習慣があるか」を問う質問をしただけであるので、あなたは「はい・いいえ」でこの問いに答えることが可能だ。このように、言葉の文字通りの意味だけをもっぱら扱うのが「意味論」である。この店員の発話を意味論的に分析できる側面としては、「タバコ」「吸う」などの個々の単語の意味をどのように定義すればよいか、それらの語の意味が、この文の文法構造との関連でどのようにして文全体への意味へと組み立てられてゆくか、そうしてできた文全体の意味をどのようなかたちで表記すべきか、この文の意味と他のさまざま文との間の意味関係(同義・反復・矛盾・含意など)にはどのようなものがあるか、といった範囲のことになるだろう。

 では、これに対して、語用論的にはどうであろう。語用論では、店員の発話が、どのようなしくみで「タバコを吸いますか」という発話が、「喫煙席と禁煙席のどちらがいいですか」という意味に解釈されうるのか、その際、聞き手の頭のなかでどのような推論がなされているのか、その推論にはコンテクストがどのようなかたちで関わってくるのか、といったことを問題にすることになる。つまり、語用論的には、この店員は、あなたが禁煙席を希望するか、それとも喫煙席を希望するかを問うたことになる。そしてあなたも、「禁煙席を希望します」と答えると、店員の「タバコは吸いますか?」という当初の質問とは、全く違った形での答えになるわけである。

実際、わたし自身、ファミリーレストランに入った時、店員に「タバコを吸いますか?」と聞かれ、「禁煙席でお願いします」と答えたことがある。これは、やはり、わたしの頭の中で、店員の発話がどのようなしくみで「タバコを吸いますか?」と言ったかを考え、「この店員は、わたしが禁煙席が希望か喫煙席が希望かを問いたいのだな」と推論し、「タバコは吸いますか」という店員の当初の問いとは全く違った「禁煙席でお願いします」という回答をわたしはしたのである。このように、話し手と聞き手との間の会話に生まれてくる、より複雑で豊かな意味の現象が「語用論」というわけである。

また、中学生など、外見から明らかに未成年とわかる人がレストランに入った場合、多くのレストランでは自動的・強制的に禁煙席に案内されるが、ごく稀に、店員が「禁煙席ですか、喫煙席ですか」と訊くことがある。これは、何も、店員が、その中学生のことを喫煙者と判断した、というわけではない。これは、「あなたが中学生で、あなたがタバコを吸わないのはわかっているけれど、でも、副流煙がもくもくの喫煙席に座るのでも、構いませんか?」ということを店員は言いたいのである。つまり、この場合は、店員は、お客様がタバコを吸う人か吸わない人かを尋ねたいのではなく、タバコの煙が平気であるか苦手であるかを訊いている、と考えることができる。

また、自分では、言葉どおりの意味で喋っているつもりでも、相手は勝手に語用論的能力を働かせてしまうこともある。

わたし:「先生、発音上の理由で英語が外国人に通じなかったってありますか?」

中学生の時、わたしは上記の質問を英語の先生にしたことがある。これは意味論としてはまさに文字どおりの質問であり、わたしはこの質問の回答を通して、「英語の発音もきちっと学ぶべきなのだろうか」「やはり発音によっては、実際には通じないことがあるのだろうか」という当時の自分の不安への対処を探るつもりであった。ところが、わたしにこの質問をされた英語の先生は、「英語の先生は発音が下手なので、生徒から、この英語の先生の発音は外国人に通じていないと思われている」という意味で解釈していまい、自分の英語の発音が下手と生徒に言われたようで落ち込んでしまった。

あるいは、最近では、携帯電話の普及に伴い、携帯電話の電子メールによるトラブルが相次いでいる。直接会って話すときなら、口調・表情・仕草などで、相手の言っていることの意味合い(ニュアンス)がおよそ理解でき、あるいは電話口であっても相手の口調はわかる。一方、電子メールでは、純粋に「文字だけ」なので、相手のメールが、怒っているのか笑っているのか、本気なのか冗談なのか、判断がやや困難である。

自分「明日遊ぼう」

相手「遊べない」

例えば、上記のように、相手に「明日遊ぼう」という電子メールを送信したとして、「遊べない」というメールが返信されたとしよう。これは会話の時なら、相手がどういう意味合い(ニュアンス)で言っているがわかるので、別に何の変哲もない日常の風景だが、電子メールの場合、「遊べない」という字面だけでは、まるで自分が相手に嫌われたかのような錯覚に陥ることもある。だが、もし、あらゆる人がメールを意味論で解約した場合、このようなトラブルや誤解・勘違いは無くなると思われる。そもそも、口調や表情によって自分の言ったことが自分の意図と違う意味で相手に伝わる恐れがあるのに対し、電子メールの場合は純粋に文字だけなので、本来的には、電子メールの方が誤解が少ないはずだ。しかしそうならないのは、多くの人が、言語をコミュニケーションの道具として捉えていて、無意識のうちに頭の中で語用論的な思考をしているからだろう。

 近年では、絵文字や顔文字を入れてどういうニュアンスで伝えるかといった工夫をしている人も多く見受けられる。これは、「字面だけでのコミュニケーション」の中での最大限のニュアンスを伝える方法として、語用論の生み出した副産物かもしれません。ただ、この顔文字は顔文字ならではの問題点があるようで、意味論的に文章を解釈する人には意味のわからない記号でしかなく、また、緊急事態にも関わらず顔文字つきの電子メールでのSOS発信だったため、警察が「顔文字を使用するなら、緊急性はない」と判断し、警察が動くのが大幅に遅れたことも実際にあった。顔文字には、どこか悪ふざけといったイメージが漂っているようだ。

 意味論の典型的な例は、WEB制作におけるHTML言語であろう。WEBサイト(ホームページ)は、主にHTML言語により作られているが、これは、ブラウザ間により若干の解釈の相違はあるものの、原則として、HTML言語は忠実に解釈されている。

例えば、<html>,<head>,<font>,<body>,<table>,<span>などのいろいろなHTMLタグがあるが、これらはいずれも、文字通り、<table>であれば<table>としか解釈されない。もし、コンピューターやブラウザにより色々な解釈があってしまえば、WEBサイトの世界は混乱を極めること必至なので、HTML言語の世界は、まさに意味論の典型的かつ端的な例である。

3 自動車を運転してみて気づく語用論

では、交通において、いかに語用論的要素が街に溢れているのが見つけられるか、検証していく。車を運転してみれば、あちこちに語用論的要素の文章を見かける。道路標識,看板,車に貼られているステッカー。ここに見られる文字群は、勿論中には言葉通りの意味のものも多いだろうが、ほとんどが言外の意味を含むものだと思われる。限られたスペースでの表記である以上、文字数の制約上、読み手の語用論的能力に期待して簡潔な表現で済ませている例もあるに違いない。

 わたしが4間通った東洋学園大学流山校舎は千葉県流山市にあり、それも流山市の端の方に位置するので、隣の市の松戸市が近い。その東洋学園大学から自転車で数分行けば流山市と松戸市の市の境目があり、そこには

1:「これまで松戸市 安全運転ありがとう」

2:「ここより松戸市 安全運転お願いします」

と言った表記が見られる。これらの表現を見て、違和感を抱く人がいるのではないだろうか。なぜなら、まるで「流山市では安全運転しなくていいよ」という風に聞こえるからだ。

これらの表現は意味論的には「安全運転をして」という文字通りの意味にしかならない。しかし、多くの人はこれらの表現で違和感を抱き、その違和感の正体こそ語用論的な要素を孕むものである。特に前者の「これまで松戸市 安全運転ありがとう」とは、その先の流山市のことをまるで無視している感じがし、まるで流山市での運転はどうでもいいのかとさえ、思う。仮に「引き続き」という一節を入れた場合、「引き続き安全運転お願いします」という文章になり、これなら「松戸市でも流山市でも安全運転をして」というわかりやすい意味になる。たった4文字入れるだけで文章の印象がガラリと変わるのに、それをしないということは、松戸市と流山市は仲が悪いのかなと邪推してしまい、思い過ごしかもしれないが、語用論から、市町村の仲という、政治的なところまでそこまでわかってしまうのである。

実際に流山市と松戸市が仲が悪いかはわたしの知るところではないし、私見で言えば、松戸市の発展は常磐線の影響があり、当初は流山市を通る予定だった常磐線が松戸市を通ることになったのは、流山市の反対があったからで、結果的に松戸市が発展したのは流山市のおかげといった側面もあり、松戸市は流山市に感謝すべきであろう。あるいは、もしかしたら単に字数の都合の問題かもしれない。しかしながら、字数を問題にするなら、それこそ「ここまで松戸市 安全運転で」と書けば、どこで安全運転をすれば良いか示されていないので、読み手は語用論的能力から「松戸市だろうが流山市だろうが、自動車運転時は常に安全運転をしなければならない」と解釈するのではないかと、思われる。

自動車の運転に見られる語用論は他にも例が多くあり、まさに枚挙に暇がない。時折、自動車の主に背面にステッカーやシールが貼られていることがあり、特に営業車,トラックに多いですが、主に見られるのは

3:「子供が乗ってます」

4:「法定速度順守車」

5:「法定速度順守車 お先にどうぞ」

6:「デジタルタコグラフ搭載車」

7:「終日ライト点灯中」

8:「昼間点灯推進車」

9:「ライト点いてるよ〜」

10:「追突注意」であり、稀に見られるのが「車間保持」

11:「同性愛者が乗ってます」など意図のよくわからない記述や、

12:「○○絶対反対」

13:「この車は無事故宣言車です」

    14:「安全五則を守って今日も無事故でいこう

    急がない(適正速度)

あせらない(平常心)<pre>無理しない(休養)<pre>過信しない(初心)<pre>怠らない(点検整備)<pre>東武バス

 

など何らかの主義・主張をしているものだ。
 

3の「子供が乗ってます」は、い抜き言葉なのは純粋に文法的な問題であり意味論や語用論には関係ないものですが、「子供が乗ってます」とは、一体何が言いたいのであろうか。意味論として言葉を文字通りに解釈すれば、「子供が乗ってます」とは単なる客観的な情景描写に過ぎない。しかし語用論的には、「子供が乗ってます」との描写と通して何か伝えたいことがあるはずで、「子供が乗ってるから、後続車は追突しないよう安全運転して」や「子供が乗ってるから、もし崖崩れなどで車が埋まった時、子供も救出して」ということを示している、と考えられる。
 

4の「法定速度順守車(厳守車)」に関しては、これも語用論的には、どういうつもりで貼っているのか、いろいろ考察の余地がある。「自分だけは法律を守って偉い」ということなのか、それとも「一般的には制限速度以上で道路は流れているが、自分は制限速度で走るので、先を急ぎたい人はどうぞ追い越して下さい」ということなのだろうか。
 

なお、誤解のないよいに補足するが、「法定速度」とは、道路交通法の上では60km/hのことを指し、厳密に言えば、一般的な意味での「制限速度」ではないし、「制限速度」にしても、「制限速度」という単語自体、道路交通法に存在しない。道路交通法上は、「最高速度制限」で速度が定められており、その中に、標識の数字に従う「規制速度」と、標識のないところの速度である「法定速度(60km/h)」がある。よって、ほとんどの場合において「法定速度」が、道路交通法でいうところの「最高速度制限」という意味で使われていて、法律的には表現上の誤りになっている。
 

話を戻して、5は、4に「お先にどうぞ」という文面が加わっただけだが、この「お先にどうぞ」が曲者である。これこそ、「一般的には道路は制限速度以上で流れているけれど、自分は制限速度で走るので、追い越して頂いて構わないですよ」と意味合いで貼られているのかもしれないが、「お先にどうぞ」とは、他車に対して制限速度以上で走っていいということを言っているとも取れるので、人によっては、「他車へ、違反を推奨している」とうがった解釈をする人もいるようだ。
 

 6は、4とほぼ同じである。自分の車にはデジタルタコグラフ(運転記録装置)が付いているから、制限速度以上出すことはできない、だから制限速度で走ります、ということを言いたいのであろう。ただ、これは、これを読む者が「デジタルタコグラフ」というものを知っていて初めて、「法定速度順守車」と同じ意味になるのであって、「デジタルタコグラフ」というものを知らない読み手にとっては、一体なにが言いたい文章かわからず、語用論的解釈をするのは、もしかしたら、無理かもわからない。
 

 4,5,6のすべてに言えることだが、これらのステッカーは、どの地域を走ってる車に貼られているかによっても、語用論的な意味合いが若干変わってくる。東京都の23区内のように、交通量が多く制限速度を守っている、あるいは制限速度を守らざるをえない車が多数いる状況の中で「制限速度順守車」ステッカーを貼っている場合と、田舎の制限速度プラス30キロ程度で流れているのが当たり前の道路で同種のステッカーを貼るのでは、意味合いが違ってくる。
 

 7は、これは意味論で考えると、文字通り「(走行中は)1日中、ライトを点けています」ということだ。けれど、語用論で考えると、そもそも、なぜわざわざ「1日中ライトを点けている」ことを明示する必要があるのか、そもそも不思議であります。4,5,6の場合は制限速度の例で、大多数の車が制限速度を守っていない以上、道路の流れに乗らずに制限速度を守る場合には、追突されるのを防いだり急いでる車には先に行ってもらうために、わざわざ、制限速度を順守する旨を掲示するのは自然かもしれないが、ライト点灯の場合、特に掲示する必要はないはずだ。もちろん、日本においては、大多数の車が昼間はライトを点けていませんが、こちらは制限速度の場合と異なり、ライトを点けていたからといって流れに乗らないわけではありませんし、追突される危険があるわけでもないだろう。それにも関わらず、なぜ、「1日中ライトを点けている」ということを明示しているのだろうか。営業車の場合は、「我が社は昼間もライトを点けていて安全運転に努めている」という企業イメージ上の理由もあるのかもしれないが、ほとんどの場合、営業車・一般車ともに、「誤ってライト点灯していると勘違いされることを防ぐ」ためだと言えると思う。高緯度の国では法制化されているライトの終日点灯であるが、日本においては、昼間においてはライト点灯の法規制は存在せず、昼間にライトを点けていると「誤点灯」「消し忘れ」と勘違いされることが多々ある。これに関しては後述の9で詳しく見ていきますが、「終日ライト点灯中」とのステッカーには、「自分は間違えてライトを点けているのではなく、意図的に点けているんです」という意味が含まれていると考えると自然であろう。
 

 8は、7とほぼ変わらない。ただ、営業車の場合において、「昼間点灯推進車」とのステッカーが貼られながらライトを点灯していない車両があれば、それはもしかしたら乗務員が、「自分は昼間点灯には賛同できない。それにステッカーはあくまで『推進』なのだから、自分はライトを点ける気はない」と思っているのかもしれない。
 

 では、9はどうでしょうか。これは7や8に関連することであります。日本の車は、昼間にライトを点灯している車両がほとんど無い上に、薄暗くなってもライトを点けない車が極端に多くある。「ライトは見るためではなく見られるためにある」という根本をわかっていない運転者が多く、日本において昼間にライトを点けて走っていると、対向車から「ライト点いてるぞ〜」という意味のパッシングをされたり、歩行者に「ライト点いてるよ〜」と言われたりするが結構あります。そもそも、ライトは見るためではなく見られるためにあるというのは自動車にしろ自転車にしろ鉄道にしろ同じわけであって、いくら昼間ライト点灯車両の少ない日本とはいえども、大半の鉄道が昼間もライトを点けている上に、タクシーやバス・トラックでは昼間にライトを点けている車両も多いわけだ。したがって「昼間点灯」を知らない人間は、日頃の生活の洞察力がよほど欠如しているか、あるいは「視力は人それぞれ違う」といった誰でも常識的に知っていることさえ知らない、どこかおかしな人間で、そんな人間が免許を持って車を運転できる日本の制度にわたしは恐怖と一抹の不安を覚えざるを得ない。昼間ライトを点灯している車両に「ライト点いてますよ〜」と指摘する人は、本人は親切のつもりかもしれませんが、相手から見ればこの上なく迷惑な話であり、安全運転に対する妨害さえ言えるだろう。また、昼間ライトを点いている車両を見て、「意図的に点けている」という考えが及ばず、短絡的・条件反射的にパッシングするような人は、「推論」という思考回路が働いていないわけであり、もしかしたら、そのような人達には言語においても、語用論的能力が著しく欠けていて、意味論的に文字通りの言葉の解釈しかできないのかもしれない。話が逸れたが、「昼間にライトを点ける」ということを知らない人は、昼間にライトが点いている車両を見ると「ライト点いてるよ〜」と言うことが多いが、これも語用論の一種である。「ライト点いてるよ〜」というのは、意味論としては、「ライトが点いている」という客観的な情景描写であり、決してそれ以上の意味ではない。ところが、話者としては、「昼間にライトを点ける車はいない→昼間にライトを点ける車は間違って点けている→ライト点いてることを教えてあげよう」という感じで、「あなたの車はライトが点いているので、消すべきですよ」という意味のことを言っているのである。つまり、「ライト点いているよ〜」との発言は、話者は「昼間なのにあなたの車はライトが点いているので、消すべきです」という、文字通りの意味とは違った意味で解釈されることを期待して、発話しているわけだ。
 

 10に関しては、これも意味論としては「追突に注意しろ」という意味でしかありませんが、語用論で考えますと、「自分の車の後ろの車は、注意して、車間距離を取って下さい」ということを言いたいであろう。なお東武バス株式会社の路線バス車両には「車間保持」という文字が書いてあり、わたし個人としては、あくまで個人的な考えであるが、「追突注意」と書いて読み手の語用論的能力に期待するより、東武バス路線バス車両のように最初から「車間保持」と記述した方が、より意図が読み手に伝わりやすくて良いと考える。
 

 11は、これはきわめて稀なケースであり、ごく稀にこのようなステッカーを貼っている車を見ることもある。これも意味論では「この車には同性愛者が乗っている」という、ただそれだけのことで、それ以上の意味でもそれ以下の意味でもありません。けれどこの表記を見た多くの者は、きっと「なんでこんなステッカーを貼っているんだろう」と感じることだろう。わたしは一度、卒業論文の参考インタビューということで、このようなステッカーを貼っている運転手にどういう意図で貼っているのかを尋ねたことがあり、その時の回答によれば、「同性愛者が異性愛者と同様の権利を勝ち取れる日が来ることを願っている。そのための前段階として同性愛者を認知そして周知してもらうため、世界中に同性愛者がいてあなたの身近に同性愛者がいることを知ってもらうため、車にこのステッカーを貼って啓蒙活動している」とのことだった。これは完全に、読み手の語用論的能力に期待しているものであるわけだ。また、この文章に関しては、文章の読み手が同性愛者か異性愛者か、あるいは同性愛者の知人がいるか否かで、解釈が大きく変わってくる可能性がある。
 

 12は、ある意味で11に通じるものがあります。よく「北方領土奪還」や「竹島奪回せよ!」とペイントされている車があり、特に毎年8月15日の靖国神社及びその周辺でよく見られる。また、2006年以降は「特定道路財源の一般財源化絶対反対」などステッカーが貼られたバスやタクシーが多く、これはバス・タクシー業界を挙げて特定道路財源の一般財源化に反対しているという意思表示だろう。これらも、意味論で見ればあくまで自分達の主義・主張を掲げているだけであるが、書き手としては、「これを読んだ人も私の考えに賛同して下さい」という意味もあると推察される。また、だからこそわたしはこれらの表記に対し、「バス業界やタクシー業界はマイカーとの差別化が重要なのに、マイカーと同じになって行動して一般財源化に反対してどうするんだ、自分の首をしめるだけではないのか」と突っ込みができるわけである。
 

 13は、「無事故宣言車」という、タクシーにペイントされていたりトラックに布が巻かれていたりするものである。これは、多くの場合、会社の意向でこのようなペイントをしているので、運転手個人個人の意思表示ではない(ただし、その会社に入社したという時点で、運転手もその会社の意思表示に同意したという解釈はできるかもしれない)。わたしとしては、この「無事故宣言車」という文章を、「『事故をしない』ということをアピールして、慎重な運転につとめるという心構えの表れ」という風に受け取っている。だが、中には、「宣言すれば事故が無くなると思ってるおめでたい運転者」「宣言して事故が無くなるなら、みんな宣言するさ」という、なんともうがった解釈をする人も多く、驚いた。このような解釈は穿っていて、語用論として見た場合でも、「宣言することにより緊張感を高めた運転をする」という、いわば自分への戒め的な意味合い、というのが真相に近いとわたしは考えている。
 

 14は、これは東洋学園大学流山校舎の所在地である千葉県流山市や、同県柏市などを主な営業地域にしている「東武バス」の一部車両(厳密に言えば東武バスグループである東武バスイーストの西柏営業所の保有するバスのうち、中型バスの一部)の、運転席横に貼られている”お触書””である。これは、運手席隣にあるということは、運転者が読んだり見たりすることを想定しているのであろうが、よくよく考えてみると、「あれ?」と思う部分が多くある。「あせらないで平常心」「ゆっくり走る」といっても、路線バスは定時運行を会社から指示されているわけであるので、ゆっくり走っていたら会社の言う通りに走れない恐れがある。また、「点検整備を怠らない」という点についても、点検整備をするのは営業所の整備担当の社員であり、運転士ではない。以上のことを踏まえた上で語用論的にこの御触書の意味を考えてみると、「定時運行は守ってほしいが、無理をしてまで回復運転(注1)をしなくていい。安全性が最優先。もしバスに異常な点があれば、念のために確認してほしい。」くらいのことを、この御触書は、言っているのだと思われる。一方、もしこの御触書が自家用車に貼られていた場合、東武バスイーストの場合とは意味するところが若干異なってきて、また、御触書の貼られる位置が、運転席付近か車両背面かによっても変わってきます。自家用車の場合、運転席付近にこの御触書が貼られている場合は、自家用車は路線バスの場合と違って専属の整備士が車を点検してくれるわけではなく、速度も何キロで走るかは基本的に自身の判断にゆだねられているので、御触書の意味するところは、まさに自分への戒めで、無謀な運転をしない心構えとして貼っているものと考えられる。一方、車の背面にこの御触書が貼られている場合、背面に貼られているということは、それはとりもなおさず、他車・他人の目に触れることなので、他の車に対して「安全運転でいきましょう。みなさんもきちんと車を整備しましょう。無謀な運転は禁物です」ということを呼びかけている、ということではないだろうか。感覚としては、「火の用心」とカチカチやりながら廻る人達のような感じでとらえて頂ければいいと思う。
 

 以上、ちょっと自転車や自動車を運転するだけで、あちこちに語用論が溢れていることがわかって頂けたと思う。次に、鉄道を例に見ていく。こちらもまた、語用論的な要素が溢れているようだ。
 


 


 

4 鉄道の女性専用車両にみられる語用論
 


 

 日本の鉄道では、一部の宗教団体の圧力により2005年5月より関東圏においても「女性専用車(両)」なるものが大増殖し、現在も女性専用車両の拡充の勢いは留まるところを知らない。この「女性専用車(両)」は、男女平等を謳った憲法14条に反している可能性があり、なにより、公共の鉄道において性別だけを理由に禁制の場所を設けたり、すべての男性を痴漢扱いしたりすることに危険を感じ、まるでかつて南アフリカ共和国であったアパルトヘイトと変わらない男性差別・男性への人権侵害であり、アメリカにあった黒人着席禁止バスを彷彿させる。いや、当時の黒人着席バスは、黒人であってもバス自体には乗れましたが、現在の日本の「女性専用バス」には、男性というだけでバス自体に乗れない分、女性専用車両より悪質なものがある。ここでは、この「女性専用車両」を例に、鉄道の世界においても、語用論がどんな場面でどんな役割を担っているかを見ていこう。
 

まず初めに断っておくが、「女性専用車両」というのは、鉄道営業法に根拠のあるものではなく、法律的な規定はない。つまり男性客がそこに乗るか否かは「任意」であり、感覚としては、「優先席」と同じである。しかしながら、鉄道会社はそのことをなるべく明かさないようにしているので、女性専用車両が任意であるということを知らない客は、男女問わず非常に多い。
 

 わたしは、電車に乗るたびに女性客からわけのわからないことを言われ、あまり執拗に言われるので、それが今回の卒業論文のテーマを決める契機にもなった。
 

そこで、どうせ電車に乗るたびに女性客に絡まれるなら、いっそのことそれを卒業論文の調査資料に使ってしまおうと思い、また、女性のセリフがまさに語用論的に考察する価値の深いものだったので、およそ三ヶ月、わたしは実験として西武鉄道・東急電鉄・東京メトロの女性専用車両に試乗してきた。そしたら、やはり、「ここは女性専用車両」ですと自慢をしてくる女性が散見され、この時の女性の「ここは女性専用車両ですよ」という発言を、語用論ではどういうことになるのか、考察していく。
 

 「ここは女性専用車両ですよ」というのは、意味論として考えてみれば、まさに「この車両は女性専用車両です」ということそのものであり、客観的な情景描写に過ぎない。一方、語用論では、女性専用車両内に男性が乗車している中で、女性客が男性客に言うという「状況」があり、この状況では女性がどんな意味合いで発言し、どんな意味合いに男性客が受け取るのであろうか。色々な場合が考えられる。以下に、「考えられる女性の『イイタイコト』」をまとめてみた。
 

 15「自分は超能力者である」
 

 16:「性転換手術の費用を負担してあげる」
 

 17:「(意味もなく情景描写をするのが趣味)」
 

 18:「ここは女性専用車両だから男性のあなたは出て行きなさい」
 

 19:「あなたは痴漢です」
 

 20:「(鉄道会社を買収したということを暗に言っている)」
 

20は少し違うが、20以外の上記群が語用論として考えられそうな「女性客の『イイタイコト』」である。そして17以外は、いずれも前提条件に「女性客は、女性専用車両が任意であることを知らない」というのがある。
 

15は、どういうことかというと、そもそも外見から性別を判断するのは不可能であり、推測はできるかもしれないが確定は絶対に不可能だ。それにも関わらず、女性客が男性客に対して「ここは女性専用車両ですよ」という発話をするということは、「私は超能力があり、その超能力とは人の性別を判断できることだ」ということを、自慢しているのかもしれない。
 

 16は、そこが女性専用車両にも関わらずに乗っている男性客を見て、発話者は「この方は、男性にも関わらず女性専用車両に乗っている。おそらく、女性になりたい人なのだろう。ここはひとつ、私が性転換手術の費用を負担してあげよう」ということを、伝えたいのかもしれない。
 

 17は、これは結果として解釈は意味論と同じになっているが、発話者の女性は、意味もなく「ここは女性専用車両です」と情景描写をしたいだけの、失礼な言い方をすれば少しおかしな人なのかもしれない。電車内やバス内においては、時折、独り言をひたすら言い続ける人を見かけ、稀に意味不明な話を他の乗客の誰かに話しかけている人を見かけるが、それらと同種のものと考えてよいだろう。
 

 18は、これがおそらくは多くの女性がこのような意味で「ここは女性専用車両ですよ」という発話をし、そしてその発話を聞いた人の大多数がこの18のような解釈をすると思われる。女性客は「女性専用車両は任意」ということを知らない、法的根拠が無いことを知らない。ゆえに「女性専用車両に男性客は乗ってはいけない」という、誤った上に人権侵害・人権蹂躙とも言える認識があり、女性専用車両に乗っている男性客に対して、「ここは女性だけが立ち入りを許されている場所。あなたは男性だから入って来てはならない。今すぐ出て行きなさい」という意味で言っているのであろう。また、この場合は発話者の女性が、かなり特権意識を持っているとも考えられ、公共の鉄道という場をまるで自分の家と勘違いしているような様子である。邪推かもしれないが、発話者の女性は人の痛みを理解できない類の人間なのかもしれない。
 

 19についてであるが、個人的には、これが最も自然だと考える。いかにその場所が女性専用車両とはいえ、男性の協力が任意である以上、協力しない、つまり女性専用車両に乗ってくる男性客がいてもおかしくないわけだ。そして、女性専用車両とは、実際のところはとにかくとして、名目上はあくまでも痴漢対策ということになっている。それにも関わらず、女性専用車両に乗っている男性客に対して「ここは女性専用車両です」という指摘をするということは、つまり、「あなたは痴漢である」と言っているも同然で、男性客を痴漢扱いしたことになったといっても過言ではないだろう。
 

最後に20であるが、これは語用論として見た場合であっても、このような意味になるのはやや飛躍があり、無理があるで、悪い例としてみてほしい。「ここは女性専用車両です」と発話をした女性客が、仮に本当に鉄道会社を買収したとしても、あえて「女性専用車両」の部分を言う必要はないわけで、20の解釈はきわめて不自然であり、語用論だからといってここまでねじ曲げられた意味になることはほとんどない。
 

 わたしとしては、実際の女性専用車両に乗ったときは、19の解釈をしたので、女性から一言でも「ここは女性専用車両です」と言われたら、大声で怒鳴り、怒りをあらわにした。初対面の人間にいきなり痴漢扱いされることは、そのような常識のない人間に話しかけられること自体、わたしは身の危険を感じたし、なにより、例えばコンビニエンスストアでやってもいないのに万引き犯扱いされたら不愉快になるのと同じで、わたしは怒鳴ることにより抗議の意味を示しました。あるいは、自分で出来うる範囲の自己防衛策だったのかもしれない。
 

 ところで、女性専用車両には、女性客の他、「小学生」「体の不自由な方(いわゆる障害者)」も、女性と同様に、乗車対象である。そこで、わたしは、ある実験をしてみた。わたしは、駅ホームでわたしが女性専用車両が入ってくるであろう位置に並び、駅員が「ここ女性専用車両です」とわたしに言ってくるのを待った。案の定、しばらくしたら、以下のような会話のやり取りがなされた。
 

 私:(ホーム上で、女性専用車両が入線している位置に並んでいる)
 

 駅員:「こちらにお乗りになるんですか?」
 

私は:「障害者は乗れるんですよね?」
 

駅員「はい」
 

このようなやり取りである。
 

わたしは、純粋に言葉どおりの質問として、「女性専用車両に障害者は乗れるか?」という質問をしただけであるが、駅員は、語用論を働かせ、「この客は、女性専用車両の列に並んでいて、それでいて『障害者は乗れるのか』という質問をしてくる。この人は、障害者に違いない。だから乗ってもいい」という思考をしたのであろう。わたしは、あくまでも「障害者は女性専用車両乗車対象か?」という趣旨の質問をしただけであって、自分自身が障害者だとは一言も言ってないのだが、駅員の語用論的能力により、駅員は、わたしを障害者と思ったようだ。これが「語用論」の悪用になるのかどうかはわからないが、こうすれば、健常者であっても、自分で自身のことを障害者と言うことなく、相手が自分のことを障害者だと勝手に思ってくれるわけである。
 

また、この語用論から、鉄道会社がお客様のことをどう思っているかも、ある程度わかる。わたしは試しに、「東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)」「西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)」「東急電鉄」「西武鉄道」「東京メトロ」の5社に、それぞれ、女性専用車両に関する苦情の電子メールを送信した。また、昨今は「性」の概念が多様化しているので、それを受け、性同一性障害者や、女性には興味がないのでそもそも痴漢をすること自体が考えられないであろう同性愛者は女性専用車両に乗ることが出来るかについての可否も同時に尋ねてみた。いずれの会社からも返信が来またので、それらを比較対照していく。なお、予め断っておくと、それぞれの会社との約定により、返信文章のすべてを明らかにすることはできないので、その点はご了承頂きたい。
 

JR東日本「治安維持のため、場合によっては男性のご乗車をお断りすることがあります」
 

JR西日本「快適な車内環境の維持のため、男性の方はお乗りになれません」
 

西武鉄道「女性専用車両は、男性にはわからない、人権蹂躙ともいえる苦痛を感じてる方への、緊急的な救済措置として実施しているものです。法的な規定や罰則は無く、ご乗車なさるか否かの最終判断はお客様自身ですが、何卒、女性専用車両の趣旨をご理解下さい。なお、性同一性障害者の女性専用車両への乗車は可能ですが、ご利用の際、係員から声をかけさせて頂く場合がございますので、ご理解とご協力をお願いします。」
 

東急電鉄「どうしてもご協力頂けない場合、強制的に降車させることはできないと考えておりますが、今後も粘り強くお願いしていこうと思っている次第です。性別については、ご本人様の認識に基づいて乗車されております。」
 

東京メトロ「女性専用車両ですが、お客様ひとりひとりのモラルの問題もあることから、強制的に排除することは出来ず、任意のご協力に委ねるしかないと考えております。○●様にはご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願い致します。」
 


 

JR東日本のものは、任意か強制かを曖昧にしていて明言せず、どんな場合に男性の乗車を拒否するのかも曖昧な書き方である。これは、女性専用車両に法的な規定が無いので男性客が乗っていても強制的に降ろす法的根拠はないが、しかしそのことをひた隠しにし、女性専用車両を既成事実化してしまうという意図があるのだと思われる。「任意か強制か」という二者択一の質問を、意図的に2通り以上に解釈のできる日本語の言い回しで返信したり、同性愛者や性同一性障害者のことには一切答えず、ひたすらに焦点をぼかしているわけだ。今でこそ民営化になったJR東日本であるが、このような電子メール返信文章からは、未だに国鉄時代のお役所体質が表われている。ちなみに成美堂出版の『業界地図』という本に「やや保守的,官僚的」と書かれている。JR東日本は広大な営業エリアを持ち、そのほとんどが寡占状態ゆえに殿様商売になり、お客様をお客様と思わない体質であって、それがもしかしたらこのような役所体質のメールを生み出しているのかもしれない。
 

JR西日本のものは、これは語用論で考えても意味論で考えても、「男性客がいると車内が快適ではない」ということを言っているわけである。語用論で考えた場合、JR東日本という会社が、女性のことをまさに「お客様は神様」と思っていて、男性客のことを「集金マシーン」としか思っていないことが、このような放送の言い回しに現れている。
 

蛇足だが、JR東日本もJR西日本も、結局のところ「任意か強制か」とは一切触れていない。背景知識として女性専用車両の規定のことを知っておいたほうがここの例題を理解しやすいと思われるので、簡潔に女性専用車両の規定を説明する。現在、鉄道会社は女性専用車両をあくまでも自主的に実施しているということであり、法律に則ってやっているわけではないので、男性客が女性専用車両に乗車するか否かは任意である。法的な規定が設けられれば、男性が女性専用車両に乗車することは違法になりますが、鉄道会社や国土交通省が女性専用車両を鉄道営業法に組み込もうとしない。この理由は、女性専用車両が男女平等を定める日本国憲法第14条に抵触する恐れがあるからだ。もし、女性専用車両が法制化されれば、付随的審査権(実際に施行されて被害を受けてから裁判所に審査請求する制度)が発動され、誰でも女性専用車両に対して「女性専用車両を定めた法律は憲法違反」と訴訟を起こすことができる。だが、現状の制度では、あくまでも鉄道会社が自主的に女性専用車両を実施していて、男性が乗車することは任意であるので、抽象的審査権(現在存在しない若しくは準備中の法令が、仮に施行された場合に○○の被害を受けるであろう、と言う推測に基づき裁判所に審査請求をする制度)の認められていない日本では、女性専用車両に対して裁判を起こすことができない。鉄道会社はそのことを恐れているので、意図的に女性専用車両の法制化を避け、「自主的にやっていることだから憲法の制約は受けない」という名目にしているのだと考えられる。JR東日本やJR西日本が「女性専用車両は任意」ということを伏せて、任意とも強制とも、どちらとも解釈しがたい言い回しをしてくることは、これらの会社は「女性専用車両を既成事実化したい」という意図があるのだな、ということが見えてくる。
 

話を戻して、西武鉄道(西武鉄道運輸部営業課)の返信メールはどうだろうか。同性愛についての質問には回答がありませんが、性同一性障害者に関してはきちんと返信があった。ただ、「係員が声をかけさせて頂く」ということは、結局、性同一性障害者が女性専用車両に乗ろうとしても、係員に制止されるということなのだろうか。そして、女性の苦しみを「男性にはわからない」と決めつけるような言い方をしている。これらの文面から、西武鉄道は、丁寧な会社ではあるけれどどこかにトゲがある会社だということが感じ取れる。
 

東急電鉄(東急電鉄お客様センター)の返信メールは、西武鉄道の場合と違いトゲが無く、性同一性障害の部分については、「性別はご本人様の認識」と、きわめて汎用的な回答をしています。「性別は本人の認識」であれば、もしかしたら異性装者でも女性専用車両への乗車対象になるかもしれず、非常に適切な回答をしている鉄道事業者と言える。
 

東京メトロ(旧営団地下鉄営団)は、わたしが調査した鉄道事業者の中で唯一、「ご不便をおかけします」ということを言っていて、最も好感の持てる返信である。おそらく東京メトロは、お客様を大事になる鉄道事業者なのだろう。「お客様ひとりひとりのモラル」という箇所はややぼかした言い方で意図が不明確ですが、唯一、男性のお客様へのお詫びとも取れる表現をしているので、今回比較対照した会社の中では、最も良い企業イメージかもしれない。
 


 


 

5 その他の実例
 


 

次に、自動車と鉄道、どちらに分類すればいいか謎(注2)の、遊園地の絶叫マシンについて考えてみよう。ある学生が、「自分は絶叫マシンに乗れない」と言ったとする。この学生の発話は、常識で考えれば、「絶叫マシンが怖くて苦手だから、乗りたくない」ということだろう。けれど、この学生のセリフをよくよく見てみると、どうだろうか。「乗らない」ではなく「乗れない」と言っている。ということは、なにか、体に障害があるのではないだろうか。どんな絶叫マシンであっても、あくまで「座ってる」だけなので、「乗らない」ことはあっても、「乗れない」ことは、ありえない。身長制限に引っ掛からず、五体満足で血圧にも異常のない健常者ならば、絶叫マシンに乗れないわけはない。例えばスキーを上手くなりたいという場合、時間も努力も必要で、また時間と努力があっても必ずしも上手くなるとは限らない。しかし絶叫マシンは、着席すればあとは機械が勝手に動くので、自分の意思や努力といったものは関係なく、まさに「座ってるだけ」なので、健常者であれば「乗れない」のはありえないことだ。「乗れない」ということは、「座っているだけの状態」ができないということなので、障害者と解釈できる。さて、このような解釈は、意味論でしょうか語用論でしょうか。それともただの屁理屈でしょうか。わたしとしては、これは揚げ足取りや屁理屈の類であって、特に意味論とか語用論に関係するものではないと考えている。
 

車の場合も鉄道の場合も、上記で見てきた以外にも様々な例が溢れているので、主要なものを列挙しておく。今まで出してきた例を参考に、ご自身で、意味論と語用論のそれぞれなりそうな意味を想像してほしい。
 

(車の場合)
 

・とび出し注意
 

左側通行
 

循環バスは右
 

斜め横断危険
 

死亡事故発生現場
 

事故多発地帯
 

ライト確認(山の中にある休憩の駐車場で)
 

この先急カーブ
 

自転車の無灯火危険
 

自転車は左側通行
 

駐車禁止
 

警察に通報します(駐車禁止の場所にとめてある車に貼られている紙)
 

落石注意(これからある落石は気をつけようがなくても、既に落ちている石なら避けられます&#8230;)
 

(鉄道の場合)
 

危険!駆け込み乗車
 

トイレをきれいにご利用いただきありがとうございます
 

電車内で、携帯電話の電源を切ってくれてありがとう
 

駅や車内での痴漢,暴力行為は犯罪です(駅であかろうがなかろうが、犯罪である)
 

鳩の落とし物に御注意下さい(「糞に気をつけろ」ということをユーモアで言ってるようです)
 


 


 


 

6 語用論の重要性
 


 

以上見てきたように、わたしたちは、無意識のうちに、頭の中で語用論働きをしていることが多く、自分が発言をする時も、相手の発言を聞く時も、注意を払っていくことが、円滑なコミュニケーションのために必要である。そして、そうすれば、先に述べたような、わたしの中学生時代の英語の先生のような勘違い(意味の取り違え)も無くなるし、駐車禁止を警告する旨のステッカーに対してイチャモンをつけることもなくなっていくだろう。携帯電話のメールをする時も、言い回しに注意すれば相手に誤解を与えることもなく、あるいはあなたが営業マンの場合、言葉の言い回しひとつで、相手に与える印象が大分違ってきて、もしかしたら売り上げ増に繋がるかもしれない。
 

なお、わたしの個人的な考えとしては、意味論に偏りすぎるのも、語用論に偏りすぎるのも、どちらも良くないと考えます。わたしは、大学受験を経験した身としては、意味論に偏っていた方が、大学入試問題を解くのが容易であり、また出版社によって大学入試の解答が分かれてしまうという事態を避けられる可能性が出てくるので、願望としては意味論に偏ってほしいと思うが、できる限り自分の都合を排除して考えた場合であっても、やはり、いずれか一方に偏ることは危険だと思われる。
 

言語がコミュニケーションの手段として存在する、という考え方にとらわれすぎると、ともすれば恣意的な解釈までを許すことにもなり、賛成できるものではない。かといって、言語が思考や認知のための手段として存在する、という考え方にとらわれすぎることもまた、あまり良いことではないと言えると思われます。ともかく、コミュニケーションにしても、思考にしても、認知にしても、あるいはその他の要素やことがらであっても、そもそも言語というものはコミュニケーションとしての道具として誕生したものであって人間が自主的に開発してきた、というのとは、さほど適切な考え方とは言い難いと思われます。それこそ、『バベルの塔』の話のように、「言語」というのは、気付いたら自然にわたしたちの中にあり、わたしたちがそれを結果としての手段で使っているに過ぎない、ということだろう。
 
 

(注1)「回復運転」・・・鉄道や路線バス・高速バスでは、時刻表が決まっていて、その時刻通りに運転しなければならないことになっているが、何らかの事情により、遅延が発生した時、運転速度をあげるなどして遅れを取り戻し、時刻表通りの運転に「回復」させようとすること。2005年4月の、107人の犠牲者を出したJR史上最悪の惨事となった福知山線脱線事故(尼崎事故)では、運転士が無謀な回復運転を行ったことが事故の一因とされ、また運転士に無理な回復運転を強いていたJR西日本の体質も問題になり、さらに同年12月には、同じく回復運転を行っていたJR東日本の羽越本線を走る特急「いなほ」号が脱線・横転し、死者5名を出した。これらを教訓に、現在では、鉄道は無理をしてまで回復運転をしないようになった。ただし路線バスでは相変わらずであり、特に西武バスと、子会社の西武観光バスでは、道路状況を考慮せずに単純に距離からバスの走行時間を算出したせいなのか、制限速度超過走行でも定刻運行が困難など、無理やダイヤ設定が多く、現場の運転士からは不満が上がっている。2006年12月には西武バスの運転士が青信号で横断中の小学生を死亡させてしまう例もあり、路線バスの回復運転やそもそものダイヤ設定の見直しが求められているが、現在のところ、特に改善策は示されていない。
 


 

(注2)「鉄道」の定義…鉄道を管轄する国土交通省では、バラスト(鉄道の線路に置いてある石)とレールがあるものは鉄道になっているので、遊園地のSLなども場合によっては鉄道に分類される。また、スキー場のリフトも「軌道」として鉄道の一種に分類されているので、「日本を走るすべての鉄道に乗車した」と言うためには、厳密に言えば、日本国内のすべてのスキー場のリフトに乗る必要がある。遊園地の絶叫マシンに関しては、管轄こそ国土交通省であるが、特に何に分類されているというのはないため、絶叫マシンを「乗り物」として扱うか「遊戯物」として扱うか、特にジェットコースターの場合は「レール」があるから鉄道扱いでいいのでは、などと議論がある。
 


 

参考文献(順不同)
 


 

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池田香代子&マガジンハウス『世界がもし100人の村だったらA』 2002年 マガジンハウス
 

伊藤悟 他『同性愛って何?』 2003年 緑風出版
 

かづさひろし『マンガ プロ直伝 ホームページづくりの奥義』2002年 講談社
 

金谷俊一郎『金谷俊一郎のセンターはこれだけ日本史B[近代・現代]』 2005年 文英堂本
 

東京メディア総合研究所『今がわかる業界地図』 2006年 成美堂出版
 

西きょうじ『西きょうじ英文読解講義の実況中継』 1999年 語学春秋社
 

野村旗守『男女平等バカ』 2005年 宝島社
 

長谷川瑞穂・脇山怜『英語総合研究 英語学への招待 改訂版』 1998年 研究社出版
 

服部裕幸『言語哲学入門』 2003年 勁草書房
 

松本純一「対話の中の法則---語用論への招待」『対話』 2001年 リーベル出版
 

宮沢嘉夫『元祖日本史の年代暗記法』 1989年 旺文社
 

八木一正『遊園地のメカニズム図鑑 ジェットコースタが落ちない理由』 1996年 日本実業出版社
 

八木秀次 他『新しい公民教科書 新訂版』 2005年 扶桑社
 

山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』 2001年 平凡社
 

綿貫陽『ロイヤル英文法改訂新版』 2000年 旺文社
 

西武鉄道『西武鉄道時刻表』2005年
 

『ドラえもんの社会科おもしろ攻略 日本の歴史がわかる2』 1994年 小学館
 

http://www.eonet.ne.jp/~senyou-mondai/『女性専用車両に反対する会』
 

http://www2.ezbbs.net/24/ban1/『女性専用車両についての御意見・ご感想をどうぞ。』
 

http://www.geocities.jp/mendoumei/『男性人権同盟』
 

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/3667/otoko.html『てつはい〜男性差別を取り上げるページ〜』
 

http://male-discrimination.cocolog-nifty.com/issue_women_only_car/『反・男性差別blog』
 

http://hiyake.sakura.ne.jp/8283/「大阪冬の陣」『女性専用車両反対処』
 




 
 

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東洋学園大学近く(2013年3月19日17時07分撮影)


東洋学園大学近く(2013年3月19日17時08分撮影)




南流山駅@JR東日本武蔵野線(2013年12月06日23時06〜07分撮影)